「民度」とか「有能」とか

吉田ろくです。

今日はバイト中に思ったことを書こうと思います。

僕はライブスタッフのアルバイトをしているのですが、当たり前ですがアーティストによって客層というものが変わります。
これは単なる年齢や性別だけではなく、容姿や性格もなんとなく似通った人が集まる傾向があります。
同じアーティストを見に来ているから、それにシンパシーを感じているという共通点がそのような現象を起こしているのだと思います。
前の記事に書いたように、インターネットの普及によって自由な社会に向かいつつある。
そうして文化が多様化した結果、カテゴライズという線引きができるようになりました。
ここはこういう色、あそこはあの色というように、多様な色が混在しているパレットのような社会になってきました。
おそらくそれらはすべて同じ高さにあって、優劣というのは明確に存在しないのでしょうが、どうしても他から淘汰されがちなものもあります。
わかりやすい言葉でいうと「民度」が低い、と言われているもの。
僕はこの「民度」という言葉がどうしても好きになれません。
意味を調べると、国民や住民の生活程度、また、経済力や文明の進歩の程度。と書かれていました。
この言葉が使われるときは、先にも書いたようにだいたい「民度が低い」と批判する意味合いで使われることが多いかと思います。
民度」という言葉自体が、人に優劣をつける役割を持っている気がして好きになれません。
「有能」という言葉もそうです。これは相手を褒めるときに使われがちですが、じゃあできなかった人は「無能」なの?と、どうしても発する人が上に立っているような印象を受けてしまいます。
文化自体に優劣は存在しないはずなのに、カテゴライズされた人たちは、「民度」や「有能」という言葉を使われて縦に位置づけされてしまう。
実際位置づけされた側の人間のバロメータは、もっと色んな指標があって、その人にしかない形になっているはずなのに。
人はカテゴライズすることで、だいたいの人のバロメータを画一化させて理解したい修正があるのではないでしょうか。
それは必ずしも間違ってはいないかもしれませんが、もっと細かい、その人だけの輪郭があります。
それを想像して、カテゴライズしているという先入観を捨てることが、すべての文化をフラットに扱う対策になるのではないかと思います。