人はひとりでも生きていけるのか

吉田ろくです。

今日は菅野仁さんの『友だち幻想』を読みました。

 

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

友だち幻想 (ちくまプリマー新書)

 

 この本は現代の他者との関係性から、適切なコミュニケーションを行うための方法が書かれている本です。中・高校生向けに書かれている本なので、正直に言うと読んでいて得心するということは少なかったのですが、僕が興味が湧いたのは、村社会だったころから現代の他者との関係性の変化が書かれた部分です。

もし「人はひとりでも生きていけるか」と問われたら、僕はNOと答えます。僕がいつもよく食べている弁当は、その弁当を作っている人がいて、ひいては原材料を作っている人がいて、そのお店を経営している人がいて、食べれています。このように生活するにあたって食事にしろ、なんにしろ、いま僕の生活は見知らぬ他者によって保障されています。
しかし、この見知らぬ他者を除外して、誰とも人づきあいをしない状態をひとりと定義するならば、先ほどの答えは、YESになります。人と顔を合わせなくとも、買い物なんてできるし、仕事もやろうと思えばできる。インターネットの普及などによって、直接人と関わらなくても生活できてしまうのが現代の社会です。
でも、昔はそんなことはなかった。村中が総出で田植えや稲刈りを共同で行ったり、道路が傷めば自ら直したりしていたそうなのです。共同作業を行うからには、他者とのコミュニケーションが必須になります。そうすると生活する上で人づきあいは必要となり、人はひとりでは生きていけない状態になります。そして、子供たちが通う学校も地域に根差したネットワークになり、濃密な人間関係が構成されます。
現代では技術の進歩により、ひとりでも生きていけるようになった。そして地域も偶然にその場に住んでいる人たちの集合体になっています。それで昔よりも地域のネットワークが希薄になり、これが独居老人や内向的な若者が増えているという社会問題の起因のひとつになっているのではないかと推測できます。
僕はずっとこのような問題の原因は「世界は広くなりすぎた」ことだと思っていました。インターネットなど普及せずに、ずっと村社会のような狭いコミュニティで生活していれば、他者との共存は必須になるし、情報は制限され安心した生活が送れたのではないかと考えていました。
しかし先日、佐渡島庸平さんの『WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE』で今は過度期だという文章を読んで、思い改めました。

 

 ひとりでは生きていけない社会には安心があるが、ひとりでも生きていける社会には自由がある。今は社会の在り方が安心から自由へと移り変わっている摩擦で、様々な問題が生じているのだと、この本を読んで納得しました。
世界が広くなりすぎたのではなく、文明の発展によって人が広くした世界に、まだ対応できていないだけだと。
こうした人が安心から自由を求めた結果、その方向に技術も発展することも面白いなと感じました。
この本には他にもいくつか興味深い気づきがあったので、機会があれば書きたいと思います。

でも自由が手に入った結果、またコミュニティに安心を求めてしまうのは、本質的には人はひとりでは生きていけないということなのかもと思いました。