人は矛盾の生き物

吉田ろくです。

今日はふろむださんの『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』を読みました。

 

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

 

この本は、自らに錯覚資産をつくることで、人生は成功するということが書かれた本です。錯覚資産というのは、例えば見た目が優れている人は、それだけで他の部分の評価も全体的に上がってしまうように、何かひとつが秀でていれば、事実に基づかない部分の評価も上がってしまうというような、他人からの評価を錯覚させるものです。

僕はこの本を読んで、人は矛盾の中に生きているんだという感想を得ました。人間の思考は理性と感情によって行われていると思うのですが、今まで理性というのは、完璧に論理的に行われているものだと思っていました。ですがこの本によると、人は簡単に無意識の上で論理的に破たんした思考をしてしまうのだそうです。これを思考の錯覚と言います。今までこの思考の錯覚を知らなかったので、理性で自分は論理的に考えているはずだと思っていたのですが、実際そんなことはなく、思考、ひいては人間は矛盾を持っているものだと再認識しました。

もうひとつこの本で興味深かった一節があります。

大きな錯覚資産を手に入れたいなら、「一貫して偏ったストーリー」を語らなければいけない。そしてバランスの取れた正しい主張などに、人は魅力を感じない。「シンプルでわかりやすいこと」を、それが真実であるかのように言い切ってしまえ。本当は断定できないことを断定してしまえ。

という部分です。僕の好きな映画『真夏の方程式』の主人公のセリフで「すべてを知った上で、自分の進むべき道を決めるべきだ」というセリフがあります。これは自分ばかりが主張するだけではなく、相手の主張も聞きいれた上で判断をすべきということを言っているのですが、この本では全く逆のアプローチをしています。そこで僕が違和感を持ったのは、「バランスの取れた正しい主張などに、人は魅力を感じない」の部分です。本当にそうでしょうか?仮に二つの主張が衝突しているとして、その双方のバランスを取った主張が正論だとするならば、それが一番いい結論な気がします。では、なぜ人はその主張に魅力を感じないのかというと、そこで思考の錯覚が起きているからではないでしょうか。自分の主張に錯覚を持ってしまっているため、相手の主張を自分と対等な意見だと割り切れない。そこでバランスを取ることができなくなるので、魅力的ではなくなるのではないかと思いました。そもそもすべてを知ったとしても、そこに思考の錯覚があるかぎり、進むべき道は変わらないということ。そして思考は矛盾を孕んでいるから、真実なんかわからない。ならその矛盾につけこんで、「一貫して偏ったストーリー」を語ればいい。そもそも映画の世界の話なので、現実ですべてを知ること自体が理想すぎるとも思いました。 

この本を読み終わったあと、筆者はこの本の読者に錯覚資産を植え付けるために、この本自体に「一貫して偏ったストーリー」を演出している気がしました。そこにどんな論理的な破たんがあるのか、近々また読み直したいと思います。